2023.11.19
89号:紗都ちゃんの寺小屋ばなし6
講安寺住職、両門町会町会長 池田紗都さん
長い夏が過ぎ、心地よい秋も束の間、冬の足音が聴こえてきますね。一日一日大切に過ごされていますか?まだ日中は汗ばむ10月に僧侶の衣替えがあり、私も冬の衣に袖を通し、季節の移り変わりと暦上でのギャップに戸惑いを感じた先月でした。
さて、「苦労」の意味とは、人によりけりなところが御座いますが、今回はお釈迦様の言葉をお借りして考えてみて頂きたいと思います。
魚の身で美味しいところは、魚がよく動かしていた部分にあると言います。これは人についても言えましょう。苦労をしない人よりも、苦労をした人のほうが人間味が深い。しかし、苦労をしすぎて苦労性ばかり身についても、卑屈な心を生みやすいものです。お釈迦様の時代に、自分の身体を痛めつける苦行により来世の幸福を求めた行者たちがいました。お釈迦様は、それでは苦の原因を去ることにはならないから、根本の解決にはならないと仰られました。 私達は苦労を避け、楽を求めるばかりでもいけませんが、かと言って苦労に噛りつき、それに蝕まれるのも正しい生き方ではないのです。修行としては確かにその通りで、自分から苦労をし、その先に幸福が得られると考えることは真の解決法では無いような気がします。仏教の教えに「不求自得(ふぐじとく)」という教えがあり、これは、求めることなき事柄により得られる大切なものがあるという意味です。修行は、理屈ではありません。教えに沿って自らする行為の結果、想像もしていなかった、思わぬプレゼントが備わるものなのです。苦労したくて苦労する人はいませんね。しかし、いつの間にか苦労の渦の中にいたとしても、その苦労は必ず貴方を豊かにし、優しくし、 聡明にします。苦労は苦さを労うと書きます通り、結果として貴方を労うものになるでしょう。苦の原因の根本的な解決は自己を知ることですので、決して幸福を求めて痛めつけることのないよう、 振り返れば「あれは苦労だった」と思えるくらいの姿勢で生きていきたいものです。