2023.01.15
84号:紗都ちゃんの寺小屋ばなし
講安寺住職、両門町会町会長 池田紗都さん
私はお坊さんを志してからは、毎日一度は必ず、真剣に「合掌」をしてきました。お坊さんになる前は、正直、食事を頂く時も毎回していたかどうか、さらには「真剣に」していたかどうかは怪しいのです。皆さんは毎日「真剣な合掌」をしていますでしょうか。
仏教でいう「合掌」には意味があり、右手は仏様(極楽浄土)、左手は人間(娑婆世界)を意味し、その二つを胸の前で合わせることは仏様と私が一つになることを意味します。しかしそれは、自分が仏様になるということではなく、仏様やご先祖様、旅立たれたあの方を感じることという理解でよろしいかと思います。よく「不浄の手」とも言いますよね。宗派により考え方に違いはありますが、仏教国インドでは左手が「不浄の手」であるから、食べ物を口に運ぶ手は右手です。 人間は欲にまみれた存在であるという考えが仏教では大前提ですので、そんな欲にまみれた私と、優しい仏様を合わせるなんてなおさら出来ない!ではなく、だからこそ、欲を鎮めたり心を落ち着かせるために合わせるのです。大切な人を亡くした時も、誰かの幸せを祈るときも、命をいただき感謝する食事の時も、仏様の世界や眼差しに想いを馳せ、自分の中の欲や穢れを鎮めるが如く手を合わせるのです。真剣に。キリスト教でも形は違いますが手を合わせますね。この行為は祈る民族にとってとても自然な行為であり、心を落ち着かせる役割を持っています。
真剣に合掌をしてみて下さい。「宝くじがあたりますように!」でも良いのですが、私欲のための合掌は、あまり心は落ち着きませんね(笑)力が入りますね。大切なことほど立ち止まるきっかけがないと、過ぎ去ってしまいます。多くの人にとって日常の中に手を合わせるタイミングが共通であるとすれば、食事の時でしょうか。どうぞ、「いただきます」「ごちそうさま」の合掌を「真剣な合掌」にしてみて下さい。