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2024.07.21

「生憎(あいにく)」

93号:紗都ちゃんの寺小屋ばなし10

講安寺住職、両門町会町会長 池田紗都さん

例年より梅雨入りが遅く、蒸し暑い日々ですね。天気は「天の気持ち」とよく言ったもので、我々人間は自然の恵みを受けて生かさせていただいているのに、時々それを忘れて人間側の都合で天気をみてしまうことがあります。しかしながら災害の恐れもあり、命の危険に及ぶとなると、天気は生活の中で欠かせない情報でもあるわけです。昔に比べれば、災害を未然に防ぐこともある程度は予測がつくようになってきましたが、それでも毎年多くの尊い命が自然災害により失われています。我々人間と自然との共存は、 持ちつ持たれつの関係であると達観した考えでどこまでいけるのか、非常に難しいと思われます。

挨拶の中で「本日は生憎の雨ですが」とお話になる方がいます。この場合の「生憎」とは「都合の悪い状況ですが」 という意味合いであり、雨という状態が我々にとって都合が悪いという認識となりますね。私は昔、お寺での法事の際、いらした檀信徒様に対し「生憎の雨で」と切り出しましたところ、先輩のお坊さんに「お坊さんは生憎と言っちゃいけないよ」と言われました。雨は晴天と同じ、天気の一つにすぎず、こちらの都合が悪いだけで、自然なことであるから、そういう時は「お足元の悪い中」と挨拶なさいと教わりました。お釈迦様が悟りを開かれたおよそ2500年前にも、自然の脅威は多くあったことでしょう。情報も少なく、未然に防ぐことなど考えられなかった時代と比べれば、現代は雨雲がどこに発生するかまで予想でき、それを知ることが出来るようになりました。命の危険がある場合を除いてですが、雨水が与えてくれる恵みが無ければ私たちは生きていけません。あくまでも命の危険がある場合を除いてですが、「生憎の雨」と思わずに天気を受け止めることができると、少し優しい気持ちになれる気がします。とは言いつつも、子供達の運動会や旅行が雨天となると、やはり悔しくなってしまうのは、これも煩悩のなせる業ということにしておきましょう。

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